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​      ブログ みたいなつれづれ

 

暑い暑い夏がやっと・・・終わらない・・・

どうなってしまったのだろうか。

いつまで待っても、秋の気配がやって来ない。

こんなに長い時間、冷房のお世話になったことはあまり記憶にない。

春と秋は、いずれ日本から無くなるという説もあるらしいので、何だか身に沁みて感じてしまったりする。

 

極端な気候だけが支配していく未来を想像すると、何だか人間社会のありようにも思えて、どちらともいえない

「中ほど」の存在は、居場所が小さくなっていくしかないのだろうか。

                  2023.8.28​

暑さは苦手だ。

夏が好きだったのは、小学生の頃までで終わったように思う。

親戚が大勢集まって、みんなでワイワイ食べたスイカや、枝豆の早食い競争や、お盆の迎え火やお線香の匂い。 昭和の代表的な一コマのような夏が繰り返されていたけれど、いつの間にか少しづつ姿を変え、もう殆ど残ってはいない。

 

思い出というものは、記憶を咀嚼するうちに、次第に自分なりの味付けをしてしまうのかもしれない。

だからこそ、胸の中がキュッとするような、そして少し苦いような、大切なもののように鎮座してしまうものなのだろう。

春と秋のような気温が心地いいのに、年々その季節は短くなっていく(ように感じる)。

毎日少しは外に出かけよう、と心がけるのに、照り付ける日差しと力強い雲を見ていると、心がけはすぐにシュンとしぼんでしまう。

秋よ来い! 早く来い! (夏好きの皆さんゴメンナサイ)

​                  2023.7.25

悲しさや苦しさには、その人だけの色があるように感じる。 誰とも違う、固有の悲しみや苦しみ。

誰かと似ていたり、同じように見える色があったとしても、それはやっぱり少しづつ違っていて、誰にもその色を濃くしたり薄めたり、ましてや別の色にしたりすることはできない。

それができるのは、その色を抱えた本人だけ。

無理に変えようとすれば、前よりもっと濃い影を増してしまうこともあるだろう。

辛さに、悲しさに打ちのめされている時、抜け出そうともがくほどに、足元から霧のように「色」が立ち昇ってくることだってある。

そんな時はどうか、手を広げて、その色を受け止めてみて… (とても苦しい作業だけれど)

受け止めることができた時に初めて、自分がどんな色を纏っているのかを見ることができるのだと思う。

そして、できれば受け止めたまま、信頼できる誰かに話してみてほしい。

話すことによって、さらによく見えてくることもあるはずだから。

​                  2023.6.21​

もうすっかり春、というよりは初夏のような日が多くなってきた。

年を追うごとに春と秋が短くなって、冬の厳しさと夏の酷暑にいたたまれなくなっていく気がするのは、それだけ自分の身体の対応力が落ちてきているのだと、ため息が出てしまう。

お話しを聴かせていただく方たちの中に「いまこの瞬間の、自分が居るここから消えてしまいたい」というフレーズが同じように出てくることに、少し驚いている。​

その同じような眼差しと声と表情が、胸に残って痛い。

話して、声に出してみただけでも、その重さがほんの少し軽くなるのなら、それはカウンセラー冥利に尽きるのですから、どうぞ話してください、待っています。

陽の指す窓の外を眺めながら、心の中で叫んでいる。

                  2023.5.7

 

夕食の後、一日のゴミを捨てるために外に出るのが日課となっている。

玄関からほんの数メートルしかない距離なのだが、そこを往復するわずかな時間、このところ毎日のように、去年天国に行ってしまったはずの飼い猫の声がする。

いや、正しく表現すると、飼い猫の声にそっくりの鳴き声が聞こえてくるのだ。

エサをねだる時、外出から帰って来た私を迎えに出てくる時の、甘えた鳴き声によく似ている。

30数年を様々な猫たちと暮らした後の、ポッカリとした空洞みたいな寂しさが、何もかも猫たちへの想いに繋がってしまうのだろうか。

それとも、もしかしたら本当に猫たちが、心弱った私を叱咤しているのだろうか。

                  2023.3.16

心なしか日差しが明るく感じられる。

毎年忘れずに季節はめぐり、毎年少しづつ何かが変わってゆくのだなぁ。

「何か始めますか?」「どこかへ出かけますか?」

春が来るといつも、胸の中のどこかがソワソワする。

                  2023.2.19

 

この年末年始は、いつになくやる気のおきない時間だった気がする。いつもなら元旦の配達に間に合うように、年賀状の準備をしたり、休日の間にやっておいた方が良いことを計画したりしたはずなのに。

今回はどうしても、「おめでとうございます」と書く気になれなかった。

別れてしまった命たちのダメージが、知らずしらず積もってしまっていたのかもしれない。

思いのほか感情が沈んでいるのが自覚されて、気持ちの晴れない日々だった。

それでも、個人のそんな想いとは関係なく、時間は規則正しく過ぎていく。

「時間こそが薬」そう、分かってはいるんだけれど。

                   2023.1.17 

​また12月がやってきて、もうすぐ終わろうとしている。

だからといって時間が途切れるわけでもなく、日常が続いていくだけなのに、何となく何かが終わって、何かが始まるような気がしてしまう。

毎年こんな時期には、この一年に結ばれた縁や言葉に感謝したり、離れてしまったものや感情を整理する事を心がけて、カレンダーやノートを見直したりまとめたりしている。

寒い日は特に、空から落ちてくる真っ白な雪片がいろいろな感情を揺さぶるような気がする。

みんなみんな、良いところに、いてくれますように。

                  2022.12.19

 

何年ぶりかで実家に帰った。

日中殆どの時間を使って列車を乗り継がなければならないのは相変わらず、いや以前よりもさらに列車の本数が減って、不便さが増していた。

過疎化の進む町は、まるで老いてゆく人間のよう。

少しづつ活力が落ちて、空き家ばかりの村々は眠ったように静まり返る。

迎える冬は老人たちのゆっくりとした足取りと、降り積もる雪の音だけになるような、そんな気がした。

​                   2022.11.21

猫がいなくなった家の中は、やけに広々と、そしてシンとしている。

小さな生き物が居てくれた空間は、温かく心休まる場所だったのだと、あらためて思い知らされる。

どんなに覚悟をしていても、何度同じような経験を重ねていても、ダメージは心をえぐる。

今はたくさん悲しんで、いっぱいの思い出をあれこれ取り出して浸っていよう。

                   2022.10.1

 

 

いのちは何処へいくのだろう、とふと考える。

決まった行く先があるのだろうか。それとも歌のように吹きわたっているのだろうか。

子どもの頃は、何となく空の上の方にいるようなイメージがいつのまにかできあがり、それを疑ってみることもなかった。

けれども、残り時間の方が少ない部類の人間になってみると、いのちの行く先は「人の想いの中」にしか無いのではないかと考えるようになった。

逝ってしまったいのちのことを考える時、その時にこそいのちは鮮やかに舞い戻って、傍にいてくれるのだろうと、つくづくと思う。

                   2022.7.14

老猫はもう殆ど耳が聞こえないようだ。

​もうすぐ21歳を迎える彼は、臆病で怖がり屋の仔猫だったのに、今はもう周囲の音に驚くこともなく、静かな世界でウツラウツラと日を過ごしている。

そして寝ながら独り言のようなつぶやき(?)を繰り返す。動物も人も、生きた時間を閉じてゆく過程は、あまり差が無いのだろうと思ったりする。

                    2022.6.3

 

桜の季節があっという間に過ぎて、日常は世界のつらい現実を見せつける。

遠い昔に訪れた美しい街は、戦禍にまみれ、怒りと悲嘆に塗りつぶされて、見る影もない。

人間はこんなにも愚かで残酷になれる生き物なのだと、

映像はまざまざと映し出してゆく。

こんなことのために生まれたのではない。こんなことで死んでゆく命だったはずはない。

遠く離れた日本のこの場所で、ただただ歯軋りをするしかないのだろうか。

                   2022.4.19

 

日差しが眩しくなって、やっと春めいてきた気がする。​

信州の冬の厳しさが身に染みた数か月。

何事も甘く見てはいけないと肝に銘じたつもりでも、喉元過ぎればなんとやら、時間の経過と共に人は実に色々なことを忘れて行ってしまう。

それでも、この「日にちぐすり」こそが人を癒し、前に進めてくれることもあるのだろう。

つらい、厳しい時は、時間の子守唄を聞くこともまた、自分を慰める手だてかもしれない。

​                    2022.3.8

朝いち番に老猫の背を触ると、ヒンヤリと冷たい。

彼は家族が動き出す気配を悟ると、炬燵から這い出して

いつもの位置でジッとドアが開くのを待っているに違いない。ドアが開いたと同時に「ニャッ」と一声。

この一声が無くうずくまったままの時もある。

そんな時は不調なのだ。近頃はそんな日が増えてきた。

きっとそんなに遠くないいつか、彼は私たちの元から去ってしまう。

何度も脳内シミュレーションしてはみるけれど、心のどこかで「奇跡はあるかもしれない」なんて願ってしまう自分に気づいて、そのたびに苦笑いを繰り返す。

                    2022.1.8

 

 

もうすぐ3度目の冬。

松本は風が強い。

生まれ育った町は今頃だと雪の季節。朝の窓には氷紋が張って、身支度の手はいつも遅れがちになった。

着ぶくれて背負うランドセルは腕が通しにくく、長靴はモコモコとして、転げるように雪道を歩いたような気がする。

思い出す雪の記憶は、なぜいつも暖かいのだろうか。

​                   2021.11.30 

綺麗な青空の日が続く。

それでも季節は少しずつ進んで、朝晩はひんやりとした

空気が入ってくる。

こんな時は、心を冷やしてしまわないように自分を守ろう。温かいものを意識的にゆっくりと体に入れて、息を大きく吐いて、暖かい物を身に纏おう。

私を大事にしてやれるのは、真っ先に私なのだから。

                   2021.11.7

 

そろそろ動き出しても大丈夫かな?

少しづつ視界も視力も落ちついてきたように思うし。

深呼吸をして、身体を伸ばして、寒くなってしまった季節に踏み出してみるかな。

​                   2021.10.25

目の不調が続くと、何事もやりにくい。進まない。

加えて手足の微妙な不調もあって、このところ気分は少し重い。

診察を受けると決まって「加齢」のひと言。

歳を取るのが楽しみだったんだけどな。

                       2021.9.18

​信州の季節代わりは、なかなか鋭角的。

急に暑くなったり寒くなったりに気を取られているうちに、次の季節になってしまっていたりする。

​このところの朝は涼しい。というか殆ど寒い。うっかりしているとまた秋を見過ごしてしまいそうになる。

​                                        2021.9.4

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